近所に住んでる大工の棟梁
谷中の歴史は鎌倉時代(13世紀)始まる。人々にとってその位置付けが明確になるのは江戸時代、将軍の墓所として寛永寺が建てられてから、それは17世紀に入ってからのこと。寛永寺(→)が上野の山という場所に選ばれたのは、平安京創建と同じように風水の思想と関係しているらしい。上野は江戸城の北東にあっていわゆる鬼門の方角をしめす。私はその関係の知識はほとんど皆無なのでいいかげんなことは書かないこととして、要はその方角は物の怪などが入ってこないように閉じなければならないというのが理由らしい。 |
簡単にいってしまえば寛永寺が谷中を江戸の寺町にしたようなもの。つまり創建とともにその子院が次々と集まり、それとともに人が動く。食い物屋ができる。花屋もできる。お茶屋もできる。当然住まいもできる。きっと京都のように貴族が創った町ではないから雅やかさにはかけただろうけど、その分素朴な田舎っぽさ、次第にできあがる江戸の粋ってヤツがあった庶民の寺町であったにちがいない。 |
谷中という寺町次第に寺町を形成していった谷中だが、同じ寺院といっても京都と趣向を別にしているように感じるのは貴族対武士の文化の差なのだろうか。谷中には静かさや趣もあるが京都のような威厳さや風雅さはない。閉鎖的ではなく開放的で、貴族的でなくてと庶民的で、都市ではなくて町で、見ていると寺や墓という点では京都と同じ要素を抱えているのに、でき上がったものは全く違っているような。 (→天王寺) |
そのせいか谷中の寺や墓は恐くない。肝だめしには全く不向きなように思える。それは親しみやすさがあって、恨みとか怨念が町中にこもっていないように感じるから。ここは夜遅くまで気軽なデートコース、犬の散歩道、花見などなどに使われていて、とにかくお参りという用件だけではなく人が行き交いするところなのである。 |
ところで、肝心の谷中の墓地にはだれが眠っているのかはほとんどしられていることだし、寺院のいわれも、その手の詳しい文献は沢山あり楽しく読めるエッセも出版されている。だから墓地に眠る人物や寺院の歴史のことは今後一般知識程度に紹介するにとどめて、それ以上の知識は文献にお任せすることにします。 さて、なにを隠そうやなか.comは、谷中になぜか魅せられて最近ほぼ同時期に集まってきた人で構成されています。(たまたまお世話になった不動産屋主催の花見会で知り合ったのですが。) これから「やなか.com」は、暮らし始めたばかりのこの町で惹かれたモノや人などにフォーカスして文字や写真や絵や音など五感で創る絵日記みたいなものとして登場します。だから、観光案内や下町の環境を守ろうとかいうのではないからご注意くださいネ。 日々暮らしておもしろかったこと、気になったこと、四季折々に見られる風景や話題などを、見るまま感じるままに発表してゆくことになるはずです.... きっと。
私たちの視点